村山うどんの会
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■インフォメーション■

○イベント

■武蔵村山市立第4小学校村山うどん文化継承体験学習を10/17(水)に開催しました。
◆◆◆多数の保護者のご協力、ご参加、誠にありがとうございます。◆◆◆

第4小学校 村山うどん文化継承体験学習の様子はこちら

■武蔵村山市立第5中学校村山うどん親子伝統文化体験学習を10/06(土)に開催しました。
◆◆◆多数の保護者のご協力、ご参加、誠にありがとうございます。◆◆◆

第5中学校 村山うどん伝統文化体験学習の様子はこちら

■武蔵村山市立第9小学校村山うどん文化継承体験学習を7/23(月)に開催しました。
◆◆◆武蔵村山9小の皆さんお疲れ様でした。◆◆◆
4小の皆さん、是非家庭でも村山うどん作りにチャレンジしてみて下さいね!

第9小学校 村山うどん文化継承体験学習の様子はこちら

詳細村山うどん教室今後のスケジュール
日時 対象 場所 一般募集
2月26日(月) 9:00〜 第4小学校3年生(総合的な学習) 武蔵村山市立第4小学校 終了
4月15日(日)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
5月19日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
6月16日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
7月21日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
8月25日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
9月15日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了
10月20日(土)13:00〜 中学生以上 武蔵村山市市民会館(実習室) 終了


◆◆◆多数のご参加者誠にありがとうございます。◆◆◆
平成19年度最初のめんくい教室当日の様子をアップしましたのでご覧下さい。
第7回村山かてうどん「めんくい教室」の様子はこちら
第6回村山かてうどん「めんくい教室」の様子はこちら
第4回〜第5回村山かてうどん「めんくい教室」の様子はこちら
第1回〜第3回村山かてうどん「めんくい教室」の様子はこちら



武蔵村山市立第4小学校にて文化継承体験学習を開催しました

◆◆◆武蔵村山4小の皆さんお疲れ様でした。◆◆◆
4小の皆さん、保護者の皆さん、家庭で是非村山うどん作りにチャレンジしてみて下さいね!
村山かてうどん体験学習の様子はこちら



夏休み村山うどん親子手打ち教室
「めんくい」ご参加のお礼

◆◆◆多数のご参加者誠にありがとうございました。◆◆◆

サンケイリビング協力・村山かてうどん継承研究所担当で
平成18年8月19日(土)10:00〜12:30村山うどん親子手打ち教室
「めんくい」を開催しました。夏休みの思い出になりましたか?
夏休み村山うどん親子手打ち教室めんくいの様子はこちら




村山うどん手打ち教室「めんくい」を開催しました

(平成18年5月10日(水)・17日(水)・24日(水) 3日間コース)
◆◆◆多数のご参加者誠にありがとうございました。◆◆◆
当日の様子はこちら
定員オーバーにつき今回の募集は締切らさせて頂きます。
誠に申し訳ございませんが、次回は7月〜9月頃を予定致しております。
詳細は当ホームページよりご案内を申し上げます。

第一回めんくいの様子はこちら



老人ホームイベント「ジェントルメン」を開催しました

(平成18年6月30日(金)
◆◆◆向台老人ホ−ム皆様ありがとうございました。◆◆◆

第一回ジェントルメンの様子はこちら

皆で楽しく村山うどんを作りませんか?

■リサーチ■

【村山かてうどんづくり作業工程】
○村山うどんの歴史

 武蔵村山には多くの縄文式土器、石器などの遺跡が発掘されていることなどから、10,000年以上前の縄文時代から人が住んでいたとされています。武蔵野台地の西部はかつて村山郷と言われ「村山」という地名の起源は、狭山丘陵の峰々「群山(むれやま)」がなまって「村山」になり、そして平安末期に登場した武蔵七党の中の一党、狭山丘陵「村山三里」の生産力を背景にした武士団「村山党」が最初だと言われています。

 日本に最初に麺が入ってきたのは8世紀頃の奈良時代で、当時の古文書に「索餅」や「麦縄」など麺を示す言葉があるようです。これは素麺や稲庭うどんに代表される、切らずに伸ばして作る手延べ製法による麺で、日本で最も古い饂飩と言えるのではないでしょうか。そして、唐から切麺製法による麺文化が入ったきたようですが、切麺文化のルーツには幾つかの説があります。西暦1242年に博多に承天寺を開いた聖一国師により水磨による製粉技術とともに伝えられたとされる「博多説」と西暦804年に唐(現在の中国西安)へ渡った真言宗の宗祖、空海が生誕地の讃岐にうどんを伝えたという「讃岐説」です。それでは村山のうどんはいつ頃から、どうように伝播されたのでしょう。博多と讃岐どちらが先か後かはともかく、何れにせよ空海が唐から讃岐に伝えたという切麺文化が村山うどんの源流はではないかという推測が次の要因から考えられます。まず村山には稲庭うどんに代表される手延べ文化の足跡が無い事、そして唐から日本に切麺文化を伝播した空海を宗祖とする真言宗に麺料理専門の僧がいた事、そして奈良時代和銅3年(西暦710年)に創建された村山で最も古い寺である龍華山清浄光院眞福寺が真言宗である事、また庶民のための社会事業功績や民衆からの支持などから空海が足跡を辿っていた奈良時代の高僧、行基菩薩がその眞福寺を開山した事など。眞福寺はその後、承久2年(西暦1220年)に落雷によって焼失し正応3年(西暦1290年)には滝性法師により再興され江戸時代になると徳川家から寺領20石を拝領し村山壇林という宗門学校になるなど、この地域の中心的寺院となりましたので、村山では切麺文化が早期から且つ長期に渡り流布していったのではないかと思われます。村山うどんの源流や伝播を示す確かな文献はありませんが、奈良時代から平安時代頃にかけて真言宗の僧が切麺文化や饂飩の製法などを伝えたということは十分考えられます。また、平安末期から鎌倉時代にかけて、当時武蔵ノ国で割拠し、武蔵野大地全域に勢力を広げた武士団「武蔵七党」の一つ
村山頼任を祖先とする「村山党」が饂飩を食べていたのはごく自然なことではないかと思われます。

 そのように奈良、平安、鎌倉時代には日本でうどんを食べていたのは貴族社会で、庶民に普及していったのは室町時代に入ってからです。村山でも小麦粉の文化は江戸の元禄期から既に当たり前のようにありましたので、おそらく贅沢食として一般大衆の間で食べられるようになったのは室町から安土桃山時代頃にかけてではないかと思われますがその詳細はわかっておりません。そして、狭山丘陵の村々は、江戸時代に入り武蔵野台地に進出し、畑作が盛んになりますが、川が少なく、乾燥地域のため1700年代前半頃から肥料が使われだし、江戸の市場で肥料を購入し穀物を売る貨幣経済が発達しました。この頃作られていた作物は、大麦、小麦、粟、ひえなどでした。

 その後、江戸の元禄期から江戸時代後期にかけ、畑作の増加と水田の減少によって農間余業として木綿織業などが始まり、産業は活性化してゆきました。村山うどんが食べられていた最も古い記録はこの頃で1835年に指田日記の中で「饂飩(うんとん)を出す」と書き記されています。

 その後、明治に入ると、廃藩置県により、韮山県中藤村、横田村、三ツ木村、岸村が神奈川県に編入しました。農業は江戸時代の畑作がそのまま発達し、作物は麦、粟、ひえなどの穀類が大部分でした。新しい農作物としてはお茶、桑が作られていましたが、畑面積は少なく、農家が織る木綿織が、村の中心産業に発達しました。

 明治17年北多摩郡中藤村、横田村、三ツ木村、岸村の4か村の総合村となり、明治22年に中藤村ほか3ヶ村組合として発足し、明治26年には北多摩郡中藤村ほか3か村組合が神奈川県から東京府に編入します。大正6年4月に各村が合併しひとつの村となり、中世の村山党の名にちなんで、「東京府北多摩郡村山村」となりました。

 水に恵まれない時代が続きますが昭和に入り、昭和4(1929)年に多摩湖の建設が始まります。羽村取水所から村山村横田を通り山口貯水池堰堤を結ぶ材料運搬軽便鉄道が引かれ、昭和8(1933)年に廃止となりますが、戦時中の昭和18(1943)年に空爆対策のために再度復活します。産業は江戸時代からの木綿織業の文化は日露戦争後には、絹織物の需要が増え、村山の紬は転換期を迎えます。織物の先進地である群馬県伊勢崎から板締染色、 絣板の製造、経巻(たてまき)等の技術が導入され、 村山の織物は木綿織から絹織の大島紬へと大きく転換して行き「村山大島紬」と呼ばれるようになりました。

 昭和22年頃以降から絹織物が徐々に贅沢品税から対象外品となり、村山大島紬の生産にも活気が出てきました。そして昭和29年11月3日町制が施行され、「東京府北多摩郡村山村」から「東京都北多摩郡村山町」となります。さらに昭和45年11月3日には市制が施行され、市名は「村山市」となる予定でしたが、山形県に同名の市が存在したため、武蔵野台地の「武蔵」を付けて「武蔵村山市」となりました。当時もまだ村山の人々は織物業と農業で生計を立てておりました。織物で現金を得て、食事は「大麦」や「サツマイモ」などを栽培し自給自足の食生活でした。嫁入前の労働者や住み込み労働者が多かったで経営者は親の代わりに嫁入前のしつけとして「現金収入を稼ぐ事」と「自分の食事は自分で栽培し調理する事」が人間形成の基本である事を教えたのです。大麦の食事が多かったのでよりおいしい食物を求め小麦を生産して、正月や地域のお祭りやお盆など休日に小麦を小麦粉にしておいしい食事である「手打ちうどん」や「やきもち」や「茹でまんじゅう」などを作ったのです。働く嫁入前の女性が「嫁入道具」として努力や経験をした成果が今日の「村山うどん」のおいしさを作り上げたのです。武蔵村山では古くから、嫁に入る必要条件としてうどんを打てなければならないことや、冠婚葬祭や祭事などで最後にうどんを食べるのが一般常識で、今でもその習慣は市内で広く残り、宴会の最後にうどんで締めるお店が数多く存在します。先人達は歴史的に貴重な食文化を残してくれました。

「村山かてうどん」の完成



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